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4 松本孝夫(まつもとたかお)の行為
2011/12/16

人が、表現することっていったいどういうことをいうのだろう。

 

私が、表現することについて考えたり内容をまとめようとしたりするとき、ある人の行為がいつも浮かぶ。その人のその行為そのものが私の中に巣食ってしまっているとも言えるのではないかと思う。それは、今まで紹介してきた二人と同じく、彼も信楽青年寮に入所している一人である、松本孝夫(まつもとたかお)という人の部屋でのある行為を指す。

彼は、以前私が担当していた「造形物研究所」という作業班のメンバーで、現在もそうだ。そこで、毎日絵?を描いている。「絵」という言葉にクエスチョン・マークを付けたのは、彼にとってそれが「絵」であるという認識がないように思えるからだ。ただ紙の上に鉛筆でくるくるとした線を描いているだけ。ただ、それだけ。私が感じる限りそこにある意味は、真っ白でありまだ自分の所有物ではない「紙」というものを手に入れるために、線を描いているだけの行為に思える。

以上の行為は彼が部屋で行っているものではない。しかしこの造形物研究所での行為も、彼の部屋での行為に繋(つな)がっている。

彼は、「物」を袋に詰めていく。入れられるものは、袋でなくてもよい。袋の代わりになれば何でもよいのだろう。これを読んでいる人がどこかの知的障害者入所施設を見学でもしていなければあまり想像がつかないかもしれないが、施設での団体生活というものには、支援員がどんなに個人を尊重したくてもできないときがある。それは、簡単に言ってしまえば同じ施設を利用している周囲の人々に「迷惑」という形で影響が及ぶ場合である。松本は、とにかく物を袋に詰め込みたい気持ちから、袋を探した。しかし、手元にはない。支援員が使っているゴミ袋はどこにあるのか分からないし、ビニールでできたゴミ袋は中に重いものを詰め込みすぎるとすぐに伸びて破れてしまう。考えた彼は、袋になり得るものとして衣類を選んだ。自分が自由に手にとっていいものは、自室の中にあるもの。衣類、ベッド、テレビ、テレビ台、棚、シーツなど、自分が生活に使うものばかりである。その中で、一番袋になり得ると思うものは衣類だったのだろう。時にはあまりにも大きすぎるが、上布団カバーを使うこともある。

トレーナーはほどよいサイズであるようだ。まず首部分をガムテープで塞(ふさ)ぎ、両腕の部分はその二本でくくってしまう。一番口が大きい腰部分からいろんなものを詰め込み、トレーナーがまんまるく膨らんで彼が両手で抱えきれないほどのサイズになったら、腰部分にもガムテープを張り付け、ふたをする。

 この行為はここで終わりではない。彼はこの膨らんだトレーナーを、床にどのように置くとバランスがいいのかを探り、大抵壁にもたれ掛けさせて床に置く。そして、その上にまた、膨らませた衣類や靴下などを乗せていく。

この行為の最中、彼はガムテープをよく使う。ガムテープ自体は自身が生活するうえであまり身近にないものであるが、買い物に行った時などに購入するのである。

 

私はこのような彼の一連の行為を、いつも彼の部屋のドアの隙間(すきま)から覗(のぞ)いていた。

 

ガムテープは、ふくらませた衣類のふたにも使われるが、そうでない使い方もある。彼は指先ほどのサイズにちぎった小さなガムテープをなぜか十字になるように貼(は)っていく。私には、十字に見える。膨らんだ衣類や壁に付けられ同化していく。そしてまた何かが積み上げられ、彼の手が届く限りの高さに、最後にちょこんといつも、写真などの四角いものとか、小さなものとかを乗せる。そして、時々彼はなぜかそれに向かって手を合わせるのだ。

 

松本は、自分から話をしてくる人ではない。ご飯を食べたいのか、トイレに行きたいのか、そういうことを周囲の人が聞いたら答えるし、彼が気に入っている人には、その人の鼻先に自分の指先を当てて「すき」と小声でつぶやく。しかし、自分の行為の説明はしない、いや、できないのかもしれない。

 

私はいつもドアの隙間から覗いて思っていた。例えば、彼がまあるく膨らませた衣類を床に置くとき、またガムテープを十字に貼っていくとき、彼の動きはまるで、キャンバス全体を見るために後ろへ一歩下がって筆を立てている画家の姿のようなのだ。小さなガムテープを数枚貼っては一歩下がり、見る。そしてまた近づいて、貼って、また一歩下がって、見る。こうした一連の動きの果てに、彼の積み重ねたものが出来上がる。決して妥協をしていないことがうかがえるが、彼はこれを誰かに見せるために行っているわけではない。

私自身絵を描くけれど、その行為が自分のためなのか人に見せるためなのかそれとも人のためになると思って描いているのか、自分のことなのに分からなかった。しかし考えてみると、それがなぜ分からないのかは、どれが正しいのかと考えているからだ。大事なのはどれが正しいのか、ではなく、どれが「楽しいのか」である。そしてなぜ自分は楽しいのかと考えていくと、自分の行動の意味に触れられる。

 

先ほども書いたが、彼の行為は施設という団体生活の中で、時には周囲に迷惑をかけてしまう。衣類の中に詰め込むものは、自分の所有物だけでは到底足りない。衣類をまんまるく膨らませるためには必然的に、誰かのものやゴミ箱の中に捨ててあるものなどを使うことになる。そうなったとき支援員としては注意しなければならないし、そうならないように配慮しなければならない。松本も工夫を凝らし、ばれないように人のものを物色する。私は支援員としてではなく、井上多枝子個人として、彼の考える工夫は見ていてとても楽しく、毎日のように笑えた。そして彼が作り上げたものを、彼が部屋を出て行った後に写真に撮っていた。

 

彼の行為が何を表しているのかを解説するつもりはないし、これはこういうものなのだと言うつもりもない。ただ私なりの感想を述べさせてもらえるなら、彼の行為から私は、社会というものは自分を含めて社会なのだということを感じていた。表現することを考えたとき、その対象となるものは全体的な人間であるときもあり、個人的な人間を指すときもあり、そして自分という社会の中の一員を指すときもあるのだと。私は先ほど、松本が、積み上げたそれらが仕上がったとき、時にそれに向かって手を合わせることがあると書いた。それがどういう意味を持つのか、私には説明する術がないし分からない。なのになぜか彼が手を合わせるのを見て少し涙が出そうになることがある。意味を言葉で説明できないのに感動するということってあるのだ。いや、実際それは言葉で表せることなのだろう。でもそのとき、私は言葉で考えたくなかった。なぜなら本人がそれを言葉で表現する人ではないからだ。真剣な彼の行動には、彼自身に意味がある。そしてそれは同じ人間である限り、全く理解のできないことではないはずだ。言葉での説明だけが、人の理解を深めていく方法ではないということだ。自分の目に溜(た)まった涙が、それを証明していた。

 

少々大げさに書いてしまったかもしれない。ただ私は今も、時々彼の部屋をのぞきに行っては、ニタニタしている。これではただの変態だ。

 

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井上多枝子

京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。