信楽青年寮に5年ほど勤めた頃(ころ)、人生で初めて海外に行く機会を得た。行先はスイスであったが、そのきっかけから私はインドに興味を持つことになった。スイスにあるアール・ブリュット・コレクションという美術館で開催されていた企画展の内容が、ネック・チャンドというインドの作家の作った作品展示だったのだ。
私は彼の作品をもっと見たいと思った。彼は多くの等身大に及ぶ立体作品を制作していて、それらが何千体と並ぶ公園がインドにあると知った。そんなとき私の身近な人の中に、インドに行った経験があり、そしてもう一度行きたいと強く思っている人がいた。私たちはなんとか日を合わせて5日間の休みをとり、一緒にインドへ行った。
このときネック・チャンドの作品を見ることはできなかったのだが、このインド渡航の当初の目的を忘れてしまうほどに、インドという国自体に私は容易に、強く魅せられてしまった。もうすでに7回にもなる渡航を経ている今でも、初めてインドに足を踏み入れたこのときの心模様を忘れることはできない。このとき私はインドという国を通して、自分が今まで見つめてきたこと、そして人生の中で非常に重要だと思うことをある形で見せられたのだ。その出来事を、ここに書いてみようと思う。
個人旅行でも団体旅行でも、インドに一度行くとまた行きたくなるという話はよく耳にする。どんなに多くの国へ行ったことのある人でも、インドという国はまた特別だと語る人もいる。観光客の多さは世界規模で累計してかなり上位にランクインするだろうと予想できるバラナシは、非常にインドらしい場所と言えるだろう。世界遺産があるわけでもない。母なる川ガンガーと、そこに寄り添って生きる人々がいるだけである。
私が初めてインドに足を踏み入れたのは、バラナシを含む北部ではなく南部地方だった。インド四大都市には国際空港があり、そのうちのひとつチェンナイという都市に日本からタイ経由で安く入ることができた。関西国際空港から飛行機に乗るときは日本人ばかりだったのに、タイで乗り換えたら周りはインド人ばかりになった。黒人とまではいかない、こげ茶色の肌をした人たち。布を斜めに巻いた女性、背広を着た男性、飛び出そうな大きな目をした子ども。
飛行機から出たときの熱気は今でも覚えている。ただの熱気ではない。埃(ほこり)の混じった独特の匂(にお)いがそこに含まれている。空気の質量というようなものを感じ、何もかもに存在感があった。私たちが降り立ったのは昼間で、空港を出たらその日差しの強さに驚き、暑いだろうとあらかじめ脱いでいた上着をまたはおった。同行者は早歩きで歩きだし、クラクションの飛び交う道路を横断していく。ついていくことを躊躇したものの、周囲を見ると女性や子どもも同じように横断していた。ついていくしかなかった。
私たちはたった3日間の滞在で3か所の町や村を回った。日本では死んだ魚のような眼をしていた同行者が、インド人たちのように目を大きく開けてギラギラさせ、歩くしぐさにも強みを増し何故だか背が高く見えた。彼がこんなに変わる理由がこのときは分からなかった。私はただ彼の後ろをついて歩くことしかできなかったが、夕方に行ったマリーナ・ビーチという海岸に着いたとき、私は初めて彼の背中を追い抜かし先へ立ったことを覚えている。
マリーナ・ビーチは私たちが宿泊したホテルから歩いて15分ほどのところにあり行きやすかった。ガイドブックには「このビーチはいつも人が多い。静かな海岸を望む人は避けるべし」と書かれてあった。大きな道路を横断すると海が見えたのだが、そこから海の波先まで一キロはあるだろうか。砂浜が広大で、左右を見ても果てがないように見えた。一本、両端に小さな露店が並んでいる箇所があり、多くの人々がそこを歩き海辺を目指していた。
砂浜に足を踏み入れると痛かった。サンダルと足の間に砂が入る。あらゆるゴミも混じっている。途中でサンダルを脱いだが、脱いだら脱いだで痛い。ゴミが入らないように、サンダルを砂の上に平らに乗せるようにして歩くしかなかった。露店にはプラスチックでできた生活雑貨、アクセサリー、干した魚、貝殻、ゲームなどが並んでいた。人ごみの中を一キロほど歩くと、露店の果てが来る。凧(たこ)が舞い、色の濃い綿あめや、アイスクリームなどを歩きながら売る人が現れる。
ふと前を見ると、露店は終わったのにさっき見えていた海が見えない。人の群れが、左右にどこまでも続いているからだ。人々は皆、海のほうを向いていた。家族連れ、子どもの集団、色鮮やかな女性たち。少年や青年たちはふんどし一枚で海に飛び込んではしゃいでいる。私たちは注目を浴び、子どもや青年たちがからかうように声をかけてきていた。
私はこの海岸の姿に絶句していた。体もなぜか動かず、インド人たちの背中をただ眺めていた。誰一人として水着を着ている人はいなかった。男はふんどしかズボンを履いたまま。女は民族衣装であるサリーやパンジャビドレスを着たまま、海へ入っていた。強い波が来るたび、はしゃぐ女たち。垂れたサリーが海に浮かび、膝小僧(ひざこぞう)までびしょ濡れだ。時には砂浜に座り込んで、全身がずぶ濡れになっている人もいた。私たちはそんな人たちの間を縫うようにして波先を歩いた。
一緒に写真に写ってほしいとせがまれたり、青年たちに手を引かれて海に飛び込んだりした。彼らとひとしきりはしゃいだ後、波の来ないあたりに腰を下ろし、人々の動きを眺めていた。日が落ちてくるに従って人の数が減り、夕方になると馬に乗った警察官が棒を持って、海に入る人たちを注意していた。警察官たちが去った後、私たちの目の前に3人の親子が現れた。ほっそりとした母親が、5歳くらいの息子と海に入っていく。次第に母親は楽しくなってきたのか、足を振り曲げて飛び跳ね笑い声をあげていた。そのシルエットは、まるで波と踊っているように見えた。
そんなとき、私の横に座っていた彼が呟(つぶや)いた。
「人間の本質って、こういうことだと思う」
え?と聞き返した私に、彼はこう続けた。
「人は寺院に行き、神仏に向かって手を合わせたりするでしょ。でも、人間の本質って本当はこういうところにあるんだと思う。日本の八百万の神ってわけじゃないけど、海と戯れる人たち、それが、きっと人間の本質が知っている神の姿なんだと思う。」
私はうん、うんと小さな声で呟(つぶや)いていた。
夕飯を食べホテルに戻ったが、今となってはそのあたりの記憶は曖昧(あいまい)だ。ただ、ベッドに入って寝ようとしたとき、全く何の前触れもなく、もちろん私の意識の計り知るところではないところから、涙がどっと、溢れてきた。と同時に大声を出したくなり、泣いた。彼は何が起こったのか全く分からない様子だったけれど、何も聞かずにただ、私の頭を撫でていた。
このときは自分がどうして泣いているのか、言葉で説明することができなかった。
帰国し、このときのことを考えていた。私はたまたま、マリーナ・ビーチで彼が呟いていたとき、その家族の姿を動画で撮っていた。母親がはしゃぐ姿は美しく、その上に彼の言葉が重なっていた。
私にとってあの瞬間は、いくつかの重要なことが時空を超えて重なった瞬間だった。今までの私の人生の中で言葉にできなかったことを、私がずっと追い求めていたものを、あの瞬間に彼は、インドという国と重ねて私に見せたのだ。
日本では海に入るときは水着を着る。でも、彼らはそれをしない。平日の昼間にどうしてこんなに海に人がいるのだと思うほど人がいる。オフィスで働いている人も、主婦も学生もみんな、インドの暑さから解放され涼しむために、海と戯れるのだ。自然と生きるってこういうことなんじゃないのか?日本では宗教心が人々の心から離れているが、しかしモラルは離れていないと書いていた作家がいた。それはこういうことなんじゃないのか?自然と自分が融和したときに生じる客観的な美しさ、そこには主観も客観も、そして神も自分も存在する。
このときのインド滞在3日目の最終日に、私たちはまたマリーナ・ビーチに行った。その後チェンナイに行くたびに私はこのビーチに行っている。2010年の春はここで、海を無視して物乞いを続ける子どもに会った。何を言っても、その子は海を見ようとはしなかった。知識としてこの国におけるストリートチルドレンの実情を知っていても、そのときの私の悲しみと寂しさをうまく書き表すことができない。そのときそこには、絶大なる喜びと、絶大なる悲痛が同時に存在していた。このような果てのない両極端を同時に舞降らせてくる。それが、インドという国の一面である。
京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。