川沿いの曲がり角にいるお地蔵さんと、目が合った。彼と目が合うのも久しぶりだ。そこから左へ折れて進むと、まったりとした空気が流れる。車が一台通れるくらいの細い道。近所の人と思われるおばあさんが二人、花柄の割烹着(かっぽうぎ)を着て手をヒラヒラさせながら楽しそうに話している。
この道は、10年前何度か歩いたことのある道だ。大学4回生の夏休み、就職実習をしに滋賀県甲賀市信楽町(当時は甲賀郡信楽町)にある、ここ「信楽青年寮」に来ていた。この道はそのとき、信楽青年寮に住んでいる知的障がい者の方たちと一緒に歩いた。
20人ほどの人たちと歩いたこの道では、なぜかいつも快晴だったように思う。私はいつも誰かに片手を握られていた。人と手を繋(つな)ぎながら外を歩くという習慣が自分にはなかったことを思いながら、その手を離すことのできぬまま20分ほど歩いていたことを、思い出す。
曲がり角に今もいるこのお地蔵さんは、そんな私と彼らを、そのときも見つめていた。
「障がい者」と呼ばれる人と、人生の中で接点を持つ人はどれくらいいるだろう。信楽青年寮が設立された60年ほど前の当時と今を比べても、彼らを取り巻く環境や法律も含め社会の様子は大幅に変化している。それでも、一般に生活している人々にとって彼らの存在がどの程度、そしてどのように認識されているのかと問われると、よく見えてこない。それは、個人個人が障がい者と呼ばれる人と直接的に接していないからではないだろうか。
人間は、人間である限り、どんなに違った環境で育っても分かり合えることがあるのではと、私は自分の奥底で信じてきたように思う。1年以上ものあてのない海外旅行に出かけたことも、人種や言語、国や環境が全く違う世界の人々が、今、この時間、何を思って生きていて、何を信じて生きているのかを自分の目で見たかったからかもしれない。私にそう思わせてくれたのは、以前6年間勤めたこの信楽青年寮で、知的障がい者と呼ばれる当時85人もの人たちとコミュニケーションをとったからだともいえる。コミュニケーションとは、言葉で「話す」ということだけを指すのではないのだということを、私は毎日学んでいたように思う。言葉を話せない人とも意思の疎通ができるということ。人に伝えたいことがあるときのその伝え方は、この世に存在している人間の数と同じだけ存在するということ。コミュニケーションとは、意思の疎通自体を指すのではなく、相手のことを知りたいという気持ちを指すのだということを、私は肌で感じていたのだ。だから、ひとりで初めてインドに足を踏み入れたときも、旅行者がほとんどいないイランで心の通った友人ができたことも、黒人たちの住む西アフリカの小さな村でジャンベの音に聴き惚れたことも、後に考えるとそれらは私が6年間、信楽青年寮に住む知的障がい者の人たちと「はなして」きたことがそのまま反映されているように思えた。
「枠」に、とらわれていない人たち。
性欲も食欲も物欲も、そこに恥を感じず表現する人たち。
それでいて私と同じように、日々の中にある小さな出来事に落ち込んだり悩んだりしている。
彼らは私となんら、変わりがない。大きな違いがあるとすれば、私のほうが世の中を客観視しているという点である。今というこのとき、私はこの時代に合わせて生きているのである。それをしていない彼らに惚(ほ)れる瞬間がある。その瞬間のひとつに、彼らが何かを表現したときに生まれ出たものを観たときが挙げられる。
そんな様々な「表現者」について、ここで書かせていただこうと思う。時にはちょっと遠くへ船出して、インドやアフリカでの話も織り交ぜながら。人間とはなぜ表現し、なぜ利用価値のないものを作り続けているのだろう。数千年前の人の歴史から、そんなことが今に至っても続けられているのだ。その答えを言葉で示したいわけではなく、その表現の衝動が人間に存在する限り、人は人として生きていけるのではないかという思いが私の中にある。
京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。