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2 伊藤喜彦という人
2011/10/05

私が伊藤喜彦(いとうよしひこ)という人に会ったのは2000年の夏のことだった。そのとき私は21歳、彼は65歳。場所は、滋賀県甲賀市信楽町の一角にあった信楽青年寮という施設の一部である、知的障害者の人たちのための陶器作業場であった。私はここへ体験実習をするために来ていた。

彼に会ったのは、この実習の初日であった。この日のことを思い出そうとすると、施設へ実習に来ていた緊張と、この陶器作業場での状況に感じた驚きと興奮のせいで周囲が見えなくなっていたのか、今になって克明に思い出すことは容易ではない。しかしこの日、彼の作品をひとつ買ったことは、なぜかその値段まで今になっても覚えている。作業場のそこここに置かれていた様々な作品の中から、私は灰色の、手のひらに乗るサイズの彼の作品について、職員に尋ねてから買った。

後になって知ったのだが、伊藤喜彦という人の作品は、幾度も社会の中で脚光を浴びていた。東京をはじめそのほか各地方でも、展覧会をすれば彼の作品は注目を浴び、時にメディアに取り上げられていたようだ。彼に会いに信楽町に来る人も時々いて、そんなとき喜彦さんに制作や作品のことを尋ねると、ゆったりとした口調で説明をしてくれた。彼は実習に来たばかりのまだたった二十歳そこそこの私からの質問にも丁寧に答えてくれた。そのとき、彼から発せられた言葉は私にとって非常に印象強く残っている。そして、そのあと彼が亡くなる2005年までの間に、私は何度もその言葉を聞くことになった。

「人間の、奥の奥には、鬼が棲んでいる」

彼は、奇妙に存在感の強い人物だった。彼が信楽町内の道を歩いているだけで、その姿、行動はなぜか周囲の景色と強く呼応しあっているようにも見えた。この彼の存在に対する意識は私だけにあったわけではなく、彼を見た人物ならほぼ誰でも同じようなことを口にしていたから面白い。ゆっくりと、しかし時に素早く、彼は時間という中の遊びを知っているかのように、歩いては手すりにもたれ、左右に大きく揺れたかと思うと家々の塀や置かれている焼成前の陶器に触れたりしていた。そんな彼も、信楽青年寮に入寮しているうち数人の知的障害者たちと同じく、町内のある夫婦が経営していた小さな製陶所へ時々仕事に通っていた。そこでは焼成前のつぼや置物なんかを運んだりしていたが、彼の様子を見に行くとそんな仕事風景よりも、そこのおじさんやおばさんにどやされている光景の方が多かった、というかそんな光景しか私は見たことがない。

この製陶所への出勤がない日は、信楽青年寮の作業場へ行き、「鬼の顔」を作っていた。彼はこの「顔」のことを、「人間独特の顔」と表現していた。陶土で作られた土台をスポンジで撫で、表面を滑らかにし、その上に片手で形作った陶土を付けていく。ボールペンとか、毛の無くなった(取った?)棒を持って、自分が土台に付けたその陶土に、穴を、あけていく。ズッチュ、ズッ、ポッ。と同時に、指先に水を付けて陶土を撫で、形を整えていく。

「私の心改めて、毎日明るい気持ちで、精神の心をぐぐーっと引き締めて、人間独特の顔を感じさせるために、楽しい焼きもんができるおかげさんで、私も結構楽しいんよ」

作品を作っているときは、彼は無口であった。私はその時間に声をかけることをいつも躊躇していた。そうではない時間に彼に質問をすると、落ち着いた口調でこのように話してくれていた。

この、「人間独特の顔」「人間の奥に棲む鬼」の正体が何を指すのか、今の私はもしかしたらもう知っているのかもしれない。

たとえば「怒り」というようなことについて、深く、考えそして感じられたのは彼の存在が私にそれをつついてきたからに他ならない。感情とはどういうものなのか、喜怒哀楽とはどういうことを指すのか。彼が今まで生きてきた人生と比べたら、私なんてその半分もまだ生きてはいないが、彼の人生のテーマともいえる「鬼」は、そんな私の中にもある何か明るくない場所を刺激し、私の中にも棲み始めたのだ。いや、もともと棲んでいたのだろうと思う。それを、早くに目覚めさせられたのかもしれない。

感情とはあやふやなものだ。時と場合、経験と理性によってそれは表に出されないことも多いのではないだろうか。特に「怒る」という感情を露わにしている人を想像すると、そこに理性はあまり感じられない。

彼の作った「顔」。それらの作品群は、私には「怒っている」ようには見えなかった。それらはどこか普遍的な、たとえば感情というようなものに左右されていない「顔」に見えた。ぽかんと小さな口をまあるく開けて、連なる目玉はたくさんあるのにそこには妙に自然さがあって、それらの目はどこを見つめているわけでもない。

しかし不思議なことだ。言うなれば彼の言う「鬼」という名の怒りのようなものは、そこに静かに存在していた。特定の何かにのみぶつける「怒り」ではなく、人間である以上誰もがきっと携えている、何かに向けてのどうしようもない怒り。悲しみ。それらをたとえば長期間熟成させたような、そう、怒りや悲しみといったものがその負の感情としてだけではなく、もっと複雑なものを携えていく。しかし、だからといって作品自体が複雑なわけではない。そこに在るのは、非常に単純明快なものであるから感服せざるを得ない。

彼が映っているドキュメンタリー映画は2本※ある。1990年と1998年に撮影されたそれらのフィルムには、そんな彼の佇まいが封じ込められている。彼が住んでいた信楽青年寮の敷地内では、彼が朝早くから大声で叫ぶことも少なくなく、その様子だけを見ると彼の暴力性におののく人もいただろう。作品について彼が語っていたことも、日常生活の中で彼がよく「情けない」と呟いていたことも、そんな一挙一動がその時同じ時間を過ごした人々に強烈な印象として残っている。

彼は2005年に他界している。今でこそ、彼に会うことはもう許されはしないが、彼から教わった「人間独特の顔、鬼の顔」の存在は、今も私自身に問いかけてくる。私という人間の内部に存在する、その顔を。

※「しがらきから吹いてくる風」 1990年制作 シグロ作品
「まひるのほし」 1998年制作 シグロ作品

鬼の顔 制作年不詳 H110×W126×D182 遺族蔵


鬼の顔 2003 H103×W350×D407  遺族蔵

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井上多枝子

京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。