この先を書いていく前に、ネパールのある山頂で見たものについて書いておきたい。
たった5日間インドへ行ったことがきっかけで、私は6年勤めた信楽(しがらき)青年寮を辞めることにした。インドの様々な常態は、日本で生きてきた私の常識を簡単に打ち破り、物事の裏に潜む真実について考察させた。それはインドに行ったからこその考察ではあったが、原点には、知的障害者の人たちと一緒に過ごしてきた時間があったように思う。コミュニケーションは言語だけではないということを学び、その数は関わる人間の数と同じだけ存在すると知った。もっと、様々な哲学や宗教、観念の中で生きている人たちとコミュニケーションをしてみたい。そして人が生活の中で必要とし作る美術に、もっと触れてみたい、そう思って旅に出ることにしたのだ。
国境のない日本との隔たりを感じるために船で台湾へ行き、その後東南アジアを経てインド、ネパールへと旅をした。タイで知り合った旅行者から登山ガイドの本をコピーさせてもらっていたこともあり、私はネパールにある高さ4500メートルほどの山に登ることにした。ガイドやポーターは雇わず、一人の旅行者と一緒にその山を二週間ほどで登る計画を立てた。山とはいっても登山者用の山小屋があるわけではないが、代わりに村がある。人が山で生活していた。
何度も迷い、その度に村々の人たちにガイドをしてもらった。案内してくれた最初の一人はブッダという名の子どもだった。ズボンの尻部分が破けていて、片手には古そうなビニール袋を持っていた。途中で見た崖下の小学校では、運動場に子どもたちが集まっていた。遠くから見ると中央には一頭の牛がいて、大人たちが首を切り落としているところだった。垂れる大量の血を大きな桶で受け止め、子どもたちはその様子を静かにじっと見つめていた。三階建ての、小さな家に泊めてもらったこともあった。赤い土で作られた家の一階は台所で、床とかまどが同化しており、調理道具は必要最低限のものしかなかった。壁の一部には黒い簡素な祭壇があり、二階、三階は屈まないと入れない高さだった。
朝の四時からおばあさんが起きて家の中を掃除するのだが、ホコリやごみを 外に出すのではなく、濡れた布で家の中を拭くことで家の土とホコリとが同化していくといった掃除方法であった。家の中に座ると土の冷たさを感じ、心地よかった。ずっと以前からここの自然と暮らしてきて、またこの土地を愛しているからこそ知れるその特性を有効に使った生活スタイルだった。
登り始めてから一週間経ってやっと、私たちは山頂にかなり近づいていた。この山の一番高いところに住んでいた夫婦は大量のヤク(高地に生きるウシ科の動物)を飼っていて、私たちに干しチーズをくれた。それは非常に硬く、噛めば噛むほどその濃厚な味が口の中に広がっていった。
今でもよく覚えている。この日は非常に霧が濃く、2メートル先も見えないあり様だった。山頂へあと20メートルというところで道は階段状になり、道を作るために開墾された大地の側面からは不思議な形をした木の根が出ていて、それを掴んで体を上へと引っ張りあげた。前日の発熱、または高地による酸素欠乏のせいか非常に疲れていたが、山頂入り口にさしかかってあるものを見た瞬間、疲れを忘れてしまった。
足元ばかり見ていた私は、同行者の声によって前を向いた。そこに見えた、無数の、タルチョ(チベットの五色の祈祷旗)。雨と霧で濡れそぼり、だらんと垂れ下がったカラフルな旗たちは、非常に古いものからごく最近のものと思われるものもあった。階段の果てにあった門の両端には、石と木で作られた男性器と女性器を模した造形物があった。インド、ネパールと旅してきて多くのこれらの造形物を見てきていたが、こんなにすばらしいと思うものを見たことはなかった。
女性器は石。平たい石の真ん中に空けられた穴から、太い木枝を削ったと思われる男性器が飛び出していた。男性器の先端と女性器の周りには、鮮やかな朱色の塗料が塗られていた。これらは二つ、この聖域の入り口にあり、同所に女性像と男性像もあった。
アフリカンアートのような力強さ。精巧さはない。男性器が紐でくくられ縦に動かせるようになっていた。荒さと同一化した生(ナマ)の生(せい)が、そこにあった。
これらは宗教心から作られたものである。もちろん、キャプションが添えられているわけもない。この造形物は、日本で展示してきた数々の知的障害者たちの作品とどこかリンクするように思えた。もちろん知的障害者たちも様々だが、彼らの中には、作るものの出来栄えを考えない人たちがいる。ただある一定の動作を繰り返していたり、何十年も同じ絵ばかり描いていたりする人がいる。
私は、山頂で男性器と女性器を見たとき、そのような造形物を思い出していた。この男性器と女性器はシンボルとして存在しているのであり、その形状や素材は決まっているものなのだろう。これらを生ませたのは作者であると同時に、土地、風土なのだ。土着宗教と後から伝えられた宗教との入り混じり。作者が自身を表現するのではない表現物である。
私は日本で、知的障害者の作るものを見て、同じことを感じたことがあった。もちろん、作者自身が表現された作品は非常に多い。しかし彼らは、自分が何者であり、何を成そうとしているのかなどとはきっと考えていない。
同時に、風土の強さも感じていた。この男性器と女性器を見たとき、日本でこれらを展示したらどうなるだろうと考えた。しかしすぐ後に、非常に無意味なものになるのではと思った。これらはここで見なければならないものである。どんなにこの地のことを説明し、この地の宗教について語ったとしても、この山頂で見なければならないものなのだ。私が日本で、知的障害者の人たちのためのアトリエをしていたとき、彼らの作品を展示する上でそんな風に考えたことがあっただろうか。そういえば、あった。アトリエではなく、自室でしか作ろうとしなかった松本孝夫の、物を詰め込んで膨らんだ服を展示するとき、なるべく彼の自室の様子を再現しようと試みたことを思い出した。
制作環境、またその環境下で起こった作家の内的な事象について言及するには、「場」の存在を外せないのかもしれない。それが、どんな環境であったとしても。
京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。