2011年、4月。退職した4年後の春、また、私はここ信楽青年寮へ戻ってきた。退職した時はまさか戻ってくるなどと考えもしていなかったが、今となっては、自分の存在する場所にここで暮らしている彼らがいるということが自然なことのように思える。そしてそれが逆に不思議にも感じる。
「2.伊藤喜彦という人」で書いた伊藤喜彦さんは2005年に他界した。そのときのことは鮮明に覚えているし、今でも、何もできなかった自分を悔しく思っている。いや、亡くなられたのは彼だけではない。私が初めて入職した2001年からの10年間の間に、6人が亡くなっている。信楽青年寮に住む知的障がい者たちの平均年齢は、2011年現在で57歳とまあまあ高齢である。
信楽青年寮では、知的障がい者たちでもここで働いているスタッフたちでも、この施設に携わっている誰かが亡くなると寮内でも葬式をする。私が初めてこの葬式に出席したのは、勤め始めてまだ間もないころのことだった。その情景が私には衝撃的で、こう書くのは変かもしれないが、私は信楽青年寮の葬式がとても好きである。
この葬式には、一般的に捉えられる葬式にはあまり感じられない「朗らかさ」がにじみ出ていて、その朗らかさに、残されて生きていく人たちの、知人の死の捉え方、また死とはなんであるのかといったような真実が、いとも簡単に見えてくるような気がするのだ。
広いスペースに並べられたパイプ椅子(いす)。そこはいつもであれば食堂である。スタッフと一緒にたくさんの利用者でアッという間にその椅子は埋まっていき、町内のグループホームに住む障がい者たちもキーパーさんと連れ立って、150人ほどの人が集まる。理事長や寮長、ご親族からの挨拶(あいさつ)。これらの後、全員がお焼香をするのだが、この光景はいつ見ても、いい。
「あとでおれも行くからー」
「ほなさいなら」
「まっとれよー」
掛けてある写真を見ながら、片手を高く上げて振りながら。そんな言葉がどんどん、飛び交う。なんてあっさり、さっぱりしているのだろう。私の目に溜(た)まった涙のやり場に困る瞬間である。
インドのバラナシ、ガンジス川を初めて見たとき、この青年寮の葬式を思い出していた。死んだあと自分の体をこの川に流してもらうためにインド中から主に老人が押し寄せるこの小さな町では、この川のすぐ傍(かたわら)で24時間、毎日人が焼かれている。焼かれた人はこの川に流されていく。母なる川、ガンジス。
人が死ぬということを不思議に感じ、それについて考えることもあるが、その事実を受け止めるその方法は生きている人それぞれがすることであり、それが真実とならざるを得ない。信楽青年寮でのあのあっさりとした死んだ人との別れ方は、生きている者たちの選択として、とても自然であるように思えた。「ほなさいなら」。そんな言葉は、本当にまた明日にでも会うような言葉である。そう言う彼らは、本当にそんな気分なのかもしれない。
ここに、酒井清(さかいきよし)さんという63歳のおじさんがいる。彼も、死んでいく知人にそう言う一人である。
酒井さんはとにかくユーモラスで優しくて、女好きで、話し好きなおじさんだ。そう、とにかく、ずっと話している。一緒に新幹線にでも乗ろうものなら、何時間でも話しかけられ、こっちが疲れた挙句無視して寝ようとすると、鼻をつまんでくる始末。相手が女性なら、鼻をつままれるだけでは済まない。
今でもはっきり覚えているが、私が就職実習をしに信楽青年寮に来ていたとき、彼が道路に倒れたことがあった。びっくりして心配し、すぐに駆け寄ったところ胸を触られたので、その卑怯(ひきょう)さに呆れ果て(あきれはて)、すぐ近くに職員がいたことも構わず彼の頬(ほほ)を平手打ちした。ハッと気づいた時には遅かった。ああ、もう就職はできないなと思ったのに採用されたので、その理由を後日職員に聞くと、「障がい者だからといって怒りたいときに怒らない、というのは間違っている。一人の人間として、ああいう行為をされて怒らない方がおかしい」とスタッフに言われた。酒井さんは今ではもう私にそんな行為はしないが、それでも話しながら肩とか腕を触ってくるのは日常茶飯事だ。
彼の面白い(?)ところはそれだけではない。女好きで話し好きということはわかっていただけたかもしれないが、彼のユーモラスさと優しさは、とかく半端ない。
例えば、絆創膏(ばんそうこう)が木の枝に巻きつけてあったことがあった。ふと見上げると、不自然な方向に枝が伸びていて、よく見るとそれは、落ちた木の枝を生えている木の枝に絆創膏で無理やりに貼(は)ってあったからだった。陶器作業場の職員に「絆創膏おくれ」と言ってはいつものことと無視され、看護士に「絆創膏おくれ」と言っては相手にされなかった彼が必死になってどこかから手にした絆創膏の使い道がこれだったとは。折れた枝が絆創膏でくっつくと、彼は本気で思っているのだろうか。いや、分からない。ただ、彼の優しさがそこに在る。
また、彼は時に道路の真ん中に花を置く。青年寮のゴミ捨て場から瓶を拾ってきてそこに草や花を挿し、それを道路の真ん中に置いていく。通る車に対してのいたずらである。そのほかにも例えば、スタッフの車のワイパーに木の葉っぱや枝を挟むこともよくする。ワイパーなら車に乗った時に気づくのだが、後ろのナンバープレートのボルトとプレートの間に無理やり挟んだり、サイドミラーの隙間に挟んだりする。私はそれをやられると、酒井さんからの手紙を受け取ったような気分になって笑ってしまう。帰宅時のサプライズである。
そして彼も、陶土で作品を作っている。人間を模した「人形」を彼は作っている。面白いのは、彼が作品作りに真剣でないことだ。いや、ある意味では真剣なのだが、その一方、ある意味では真剣ではない。彼は何を作っても面白いものができると思っている。作品を作るうえで更なる高みを求めておらず、ただただ「作っている」に過ぎないのだ。それが、彼の魅力であると思う。彼の作る人形は、口がぱかーっと開いており、そこから舌がにょんと飛び出ている。両の手では細長いものを抱えてお
り、それが何か本人に聞くと、「大根」とか「人参」とか「うなぎ」とか、その場限りの答えを言う。
作品作りって、これでよかったのか……。今、描いているものに満足できず、違うもの、違うものを求めてしまう自分にとって、彼の制作に対する姿勢は衝撃的で、そしてその軽薄さを面白いと思った。作品作りって、大したことじゃないのかもしれない。そう、木の枝の絆創膏を見たときも、道路の上に置かれた瓶を気づかず車で轢(ひ)いてしまうことも、私には面白い出来事だったのだ。
「あんた何歳や、30か、はたちか、19か。ぼくは63や、結婚できるな!」毎日同じことを言ってくる彼に尋ねると、「いつか当たるかもしれへん」と真剣に言う。ああ、やっぱり面白い。彼をこの言葉でくくる気は毛頭ないが、知的障がい者と呼ばれる人たちが、こんな山の中で誰にも知られないでいることが勿体(もったい)ないと思うのは、私だけではないと思う。しかし、人が生きていく中で知り合える人の人数なんて限られている。彼に会えた私はとても幸せ者だ…そう思うのは、私だけではないと思う。
京都精華大学で洋画を学んだ後、当時知的障害者入所授産施設であった「信楽青年寮」に入職し、全国で展覧会を開催した。その後、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターとなり、現在はNPO法人はれたりくもったりで、アウトサイダー・アートに関わる展覧会やグッズの開発などに携わる。様々な世界の人々の暮らしに根付いた美術を見るため、二度の長期海外渡航をした。